創業大正3年 北海道ナンバー1のかまぼこ製造技術と、価格と品質に絶対の自信あり!小樽に来たら大八栗原蒲鉾店へ!

大八栗原蒲鉾物語

序 章 栗原蒲鉾店のはじまり

創業者の栗原八郎は、明治38年に群馬の前橋近郊の大室から北海道の小樽にやってきました。

一年後、現在のかま栄の創始者芝栄吉氏のもとで蒲鉾の世界に入りました。芝氏のもとで才覚を開花した八郎は、7年のかま栄での職務を経て、腕の良い職人として認められ、大正三年に独立を決意します。

この頃に作られ始めた角焼が、大八の基礎を支えた蒲鉾の一つです。角焼には大八の屋号がくっきりと焼き抜かれています。まさに大八の看板商品なのです。
屋号の大八は大室の八郎ということで付けられた屋号です。

大八栗原蒲鉾店の歩みをたどってみましょう。
販売員 ぐちこさん
明治38年八郎、群馬から北海道に飛び出し1年間放浪
明治39年八郎、かま栄入社
大正3年現在の住所にて大八栗原商店を開業
大正6年八郎、萩原サクと結婚
昭和2年長男 清(二代目)誕生

第二章 栗原家と二つの戦争

八郎さんと清さんの二人は大きな二つの戦争に翻弄されました。

八郎さんは日露戦争時、裕福な農家の末っ子だったため、母に溺愛されていました。そのため、定かではありませんが兵隊徴用時、くじ逃れにより日露戦への参加を逃れたようです。その時、高崎の陸軍連隊は旅順戦で全滅しています。

彼は当時としては非常に体格が良く徴兵されないわけがなかったのです。彼の同級生の多くがこの戦争で散っているわけです。八郎さんは曲がったことが大嫌いな性格だったので、彼がどれほどこのことで悩んだか計り知れないものがあります。
これが彼が北海道に飛び出した理由のようです。

清さんは太平洋戦争時に予科練習生から、九州に配属され、最後は神風特攻隊に配属されました。彼の出撃は昭和20年8月15日午後の予定でした。彼の出撃の飛行機のプロペラが回され、まさに乗り込もうとしたとき、上官から作戦中止命令が飛んだそうです。そう終戦の瞬間だったそうです。

この二人のギリギリの運命が少しでも違っていたら今の大八栗原蒲鉾店はありません。

製造員 かまろうさん
まさに運命としか言いようがないですなぁ
かまぼこを作るために生まれたのかもしれない…
昭和18年清、土浦の予科練へ
昭和20年4月 戦争のため大八は第一食品に統合される
8月 清、帰省 大八栗原商店を復活させる

第三章 戦後と高度経済成長の時代

戦争が終わって物がない時代に、蒲鉾屋さんはとても儲かる商売でした。統制経済から魚は除外されていたため蒲鉾をどんどん作って周りに提供しました。だからこの時期は多くの蒲鉾屋さんができました。驚くことに小樽だけで60軒以上の蒲鉾屋さんがあったようです。

同時に原料に使うお魚は、宗八などの面倒な作業が必要な魚から、大量に取れるスケトウダラに移り、スケトウダラの冷凍すり身がこの時代にできるようになりました。調味料のグルタミン酸Naがそれを後押ししました。スケトウダラは味はないけれど、調味料で味付けができるからです。宗八などの高級な魚である必要がなくなりコストが下がった、これが大きな蒲鉾屋さんが日本中にある理由です。

高度経済成長という時代に蒲鉾屋さんたちも入っていきました。保存料が出回り、今はないAF2と言う防腐剤を入れると蒲鉾が腐らなくなり、遠くで作った蒲鉾を遠いところで売ることができるようになりました。こうして蒲鉾屋さんたちは価格競争の時代に入ってしまいました。

大きな蒲鉾屋さんが安い蒲鉾を大量にお店に出していきました。地方の蒲鉾屋さんはそれに対抗するべく努力しますが限界を感じたようです。今なら特徴のあるものを作って、それを売って展開できる時代だけれども、この時代では無理でした。清さんは危機を感じ、小樽の小さな蒲鉾屋さんを集めて、小樽蒲鉾センターを作って対抗しようとしたんだけれど、10軒の蒲鉾屋さんをまとめることはものすごく大変で、失敗してしまいました。

この大変な時期に、今の社長の康さんが、無免許無保険の飲酒運転のバイクにはねられる交通事故であわや大けがで入院してしまいます。清さんは本当に大変でした。そこで京子さんが、内職がてら蒲鉾屋さんの真似事を始めました。作っていたのはコロッケみたいでした。同時に清さんは蒲鉾センターの営業不振の責任を取って、蒲鉾センターを離れることになってしまいました。

その後、本当に小さなところからの一からの始まりで、京子さんを代表取締役として有限会社大八が作られ、高度経済成長から完全に取り残された今の栗原蒲鉾店の再出発となりました。

製造員 かまろうさん
価格競争に巻き込まれて苦労する中小企業は数知れず
それにしても三代目が無事でよかったなぁ…不幸中の幸いですな
素晴らしい奥様だったのですね!
奥様の支えがあったからこそ再出発できたのでしょうね
販売員 ぐちこさん
昭和31年清、植田京子と結婚
昭和32年長男 康(三代目) 誕生
昭和43年11月 小樽市内同業10社 小樽蒲鉾センター設立 清理事長に就任 大八栗原商店休止へ
昭和44年康、交通事故にあう、右足複雑骨折、4か月入院
昭和45年栗原京子、栗原蒲鉾店を有限会社大八として再生

第四章 札幌市民生協で生計を立てた時代

新しい会社になって、その会社を支えてくれたのは、親戚の蒲鉾屋さんから紹介された札幌市民生協との取引でした。このときできたのが、今でも人気の揚げ蒲鉾のつまみと今は製造していない野菜ボールです。味はとても評判がよかったので、多くの店舗で取り扱っていただきました。

高校生であった康さんは年末に大量の伊達巻などを焼いていました。人の手で、小さな鉄板で一日3200本作ったそうです。朝8:00開始で夜の12:00まで食事時間を除き作り続けたそうです。でもそんな伊達巻をトラックいっぱい納入したときの売り上げがあまりに少なくて情けなかったと清さんは限界を感じたそうです。大八栗原蒲鉾店が徐々に直販に移行していくきっかけがこの伊達巻だったそうです。

昭和50年に国道拡幅による会社の建物を完全に変えたとき今のお店の原型ができましたが、この直販が軌道に乗るまで長い時間がかかりました。利益の出ない中、札幌市民生協との取引が何とか大八を支え続けた時代でした。

康さんはとても頑張り屋さんなのですね
札幌市民生協様にはとても感謝しております。ありがとうございました。
販売員 ぐちこさん
昭和45年9月 札幌市民生協向けのつまみ、野菜ボールの供給販売開始
昭和48年チーズ入り蒲鉾の牧笛が完成 販売するもなかなか成長せず
昭和50年4月 康、入社
昭和50年10月 国道拡幅による新社屋(現在の店舗)完成 店頭小売開始

第五章 三代目の時代と大きな転機

今の社長が代表になったのはなんと25歳の時でした。清さんは早いうちに社長にして、いろいろ経験させたかったみたいです。清さんがフォローできるうちにということです。康さんに言わせると完全に院政だよと笑っていました。おそらく四代目さんにもそうさせるのではないでしょうか。康さんもそれが良かったからみたいです。

そんななかで、ある時すり身の業者さんが、試してみませんかとイトヨリダイの冷凍すり身を持ってきてくれたんです。非常に魚の繊維が長く(たぶん大きな魚体だったんですね)力があって、味もそこそこありました。そこでみんなで何を作るかということで角焼を再び作ることを決まりました。角焼は大八の屋号が入る象徴的な蒲鉾だからです。

そのすぐ後に、本店の向かい側にある入船市場にある小さな蒲鉾屋さんがやめることになって、そこを続けてほしいと打診がありました。そこで本店に近いけれど2号店を開くことになりました。そうしたらお客さんが比べ物にならないくらい増えました。今はとてもさびれた市場になっちゃったけれども、その頃はとてもお客さんが入って賑わっていました。大八にようやく余裕ができてきました。

そんな時小樽市の助成があって、市内の蒲鉾屋さんがそろって先進地区の小田原への見学研修がありました。康さんはそれまでに大きな工場をいくつか見てきたし、それに対して大きな驚きはありませんでした。ただ大きな機械でいっぱい作ってただけと感じたからです。味も大したことはなかったのです。

でも小田原は違いました。大きな工場は今まで見てきたから驚きませんでしたが、小田原は作ってる製品がとてもよかったのです。何より商品一つ一つに対して接する姿勢が全然違いました。小さな細かい作業をいとわず、蒲鉾をどれだけ完成させるかという姿勢に本当に参ってしまいました。味もかなわない、その作る姿勢もまるでかなわない。その思いでその夜、康さんは寝ることもできず、やけ酒を飲んで箱根で一晩泣いたそうです。

この時、康さんは根本から大八を変えようと決心しました。

製造員 かまろうさん
三代目は立派な機械をつかって大量生産するよりも、心のこもった製法に心をうたれたのでしょうな
小田原様への見学研修は、三代目にとって良い刺激になったんだなぁ
昭和58年康、代表取締役社長に就任
昭和59年イトヨリすり身原料使用開始 角焼復活 材料は洋上スケトウ(SA級)、イトヨリ(SA級)にて生産開始
昭和59年入船市場店(2号店)開店 利益水準が大幅に改善
昭和62年小田原見学 大八の転機となる

第六章 快進撃開始

康さんは小樽に入った後、さっそくグチについて調べ始めます。その中で、グチのすり身は生のものに比べると多少は落ちますが、冷凍でも十分使えることがわかりました。そこで、すり身の納入業者から、その原料の確保が可能なのか調べ、サンプルの取り寄せ、試作を少しづつはじめていきます。

年号が変わって間もないころ、とりあえず、でんぷんを2%まで落とした製品が完成しました。それまで、北海道で作られている蒲鉾はよいもので5%前後のでんぷんが使われていました。それを2%までできたとき蒲鉾の味は格段に良くなりました。いわゆる足といわれる弾力が固さではなく確保でき、いい出来だなぁと思ったそうです。

同時に小田原で見た蒲鉾の上にエビ、カニ、アナゴなどを乗せた蒲鉾を参考に大八は真空包装ではなく、小さいのですが一つづつ丁寧にリテーナで包装した手間のかかる商品を開発しました。八潮路です。丁寧な仕事は小田原に習ったものです。会社の中ではとんでもない手間のかかり方に不満を漏らす人もいましたが、それを社長は時代を説き、その作業を進めました。使っている型枠は社長自らが作り、今でも現役で使われています。

その評価は秋に行われていた小樽市水産加工品評会で、最高賞となる後志支庁賞となって実を結びました。

仕事は順調に進み、平成6年には小樽市内の南樽市場に3号店が開店しました。このお店は実演ができるだけではなく、社長にとっての実験場みたいなお店になりました。多くの新製品がこのお店から生まれていくことになるのです。また直接販売してお客様の反応を確かめることのできる貴重なお店になりました。その翌年には蒲鉾の理想である無でんぷんの蒲鉾をつくり販売できるようになりました。

このころ康さんは全国蒲鉾青年部会の会長に就任しています。

製造員 かまろうさん
三代目は罠にはめられたと言っていますが、大八のような小さな蒲鉾屋の若旦那がその立場になるのは異例中の異例ですぞ

その活動の中で、青年部の財政を立て直し、組織改革(大会の隔年開催など)を進め、最後に蒲鉾用食塩潮のハーモニーを全蒲青で作りだし、多くの蒲鉾屋さんで使っていただいています。また、スケトウダラの生すり身の調達がもう不可能になり、無リン冷凍すり身の安定的な供給先を大切な友人であるニコー食品の協力で達成し、質の高い揚げ蒲鉾の安定的製造が軌道に乗りました。

またひょんなことから、だて巻きが日本テレビで取り上げられ大変な大騒ぎになったこともありました。平成14年札幌東急百貨店の食品担当者から催事の要請があり、札幌東急百貨店B1での催事から札幌からの来客が爆発的に増加しました。

この年、康さんはある憧れにいよいよ挑戦します。宗八ガレイの復活です。これは今は亡き祖父八郎の思いを遂げる大八の蒲鉾の原点に向かう仕事の始まりなのです。

今までの努力が報われた時なのですね
八郎さんも大変お喜びになることでしょう!
販売員 ぐちこさん
昭和63年グチでの蒲鉾の試作開始
平成元年高級品に白グチを配合 でんぷんは5%から2%に変更 格段に商品のレベル上昇
八潮路発表 秋の小樽市水産加工品評会で八潮路が最高賞の後志支庁賞を獲得
平成4年康、横輪 幸子と結婚
平成5年長男 丈侃(タケナオ)誕生
平成6年南樽市場に3号店出店
平成7年高級品無でんぷん蒲鉾に変更 食感はさらに向上
平成9年全蒲青塩の研究開始 ニコー食品と無リン冷凍すり身の研究開始
平成10年有限会社から株式会社へ変更
揚げ物用のスケトウすり身をすべて無リンすり身に変更
揚げ物の食感が生すり身使用時にかなり近づく
平成11年全蒲青蒲鉾屋さんの作ったお塩潮のハーモニ―完成 すべての蒲鉾に導入
全国蒲鉾品評会に初出品いかつまみ水産庁長官賞受賞
日本TVズームイン朝にて伊達巻が話題になり大騒ぎ
平成14年3月 東急百貨店B1にて催事開始
5月 宗八ガレイのすり身の試作 量的には少量 復古版角焼試作
10月 札幌東急百貨店催事にて限定で復古版角焼販売 札幌での評価が高まり来客数が格段に増加

第七章 さらなる発展の時代へ

札幌での展開が東急百貨店で始まってから、ようやく大八の味が札幌の方々に知られるようになり、手ごろな価格で本当の高品質の商品が評判を呼びます。そのおかげで平成19年には北海道の名品を扱う札幌地下街オーロラタウンのきたキッチンから要請を受け商品展開が始まります。

きたキッチンは札幌丸井今井の新たな戦略の象徴でしたし、そこに展開されるということで北海道内での確固たる評価をいただくことになりました。

また、丸井今井本館9F催事での高い評価も得ることができました。
東急催事の時にできたパセリーノにジェノベーゼソースを加えたパセリーノ・ジェノベーゼが平成23年の水産庁長官賞を全国蒲鉾品評会で受賞し、この年はパセリーノ一色で大きな売り上げになりました。

さらに平成25年には八潮路のカニが全国蒲鉾品評会で水産庁長官賞をいただき、きたキッチンの運営母体の北海道百貨の要請で、東京有楽町の交通会館どさんこプラザで商品の展開が始まりました。水産練り製品では入れ替わりが激しいのが常でしたが、大八の蒲鉾は固定客が形成され、安定的に販売されているようです。

平成26年2月全国蒲鉾品評会に宗八ガレイ50%ぐち50%の角焼を出展しました。宗八を50%入れると、しっかりその味がかまぼこに出てきます。これを無でんぷんで作ってみました。その評価はありがたいことに特に同業の蒲鉾屋さんから評価をいただきました。それが全蒲特別賞でした。

その結果とその年の高い評価をいただいているかまぼこの分析から、この角焼にすわり工程を加えることにしました。焼き蒲鉾にすわり工程を加えるのは大八では初めてのことで面倒なのですが、これが功を奏し、秋に行われた新設の小樽水産加工グランプリにおいて優勝を果たしました。特に玄人好みの出来上がりに絶賛の声が上がりました。

奇しくもその表彰式が行われた2015年10月15日は、栗原八郎がこの大八栗原蒲鉾店を開業して丁度100年目の日でありました。

2016年3月26日からの全国蒲鉾品評会に出品するには、3月24日までに参加させる品物を作らなければならないのですが、角焼は最後の最後まで調整していました。どうしても小田原の古今に迫る食感が出せなかったので、最後の2か月で手を付けていなかった卵白量と水分の量のバランス調整です。

昨年の水産庁長官賞をいただいてから20回ほど色々と調整し、3月23日にふたつのサンプルができました。私にどちらを出すか打診があったほうの片方が農林水産大臣賞になりました。噛んだ瞬間の味が今までの中で最高でした。本当にギリギリの完成だったのです。

私もパセリーノ・ジェノベーゼは大好きなかまぼこのひとつです
三代目お手製のジェノベーゼソースもたまらないんですよ♪
販売員 ぐちこさん
製造員 かまろうさん
創業100年、おめでとうございます!!!
札幌の方々にも全国蒲鉾品評会でも認めていただき嬉しい限りですな
平成19年札幌丸井今井直轄北海道百貨 きたキッチンに一部商品展開
10月 丸井今井9階催事場に初登場さらにファン層が広がる
平成20年全蒲参加の東京シーフードショウに協力参加
平成23年パセリーノ・ジェノベーゼ全国蒲鉾品評会で水産庁長官賞
平成25年八潮路が水産庁長官賞
有楽町交通会館北海道どさんこプラザで商品展開始まる
平成26年全国蒲鉾品評会で復古版宗八入り角焼特別賞
渋谷東急東横店北海道フェアで催事
復古版宗八入り角焼 第一回小樽水産加工グランプリ第一位金賞獲得
札幌大丸百貨店で年末商品初販売 きたキッチン・大丸ともに販売好調で終了
平成27年復古版宗八入り角焼が全国蒲鉾品評会で水産庁長官賞
平成28年復古版宗八入り角焼が全国蒲鉾品評会で農林水産大臣賞
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